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「対馬がもっと輝くように」

対馬の魅力を大切に。

対馬の価値を最大に。

誇りあるふるさと再生、

原木栽培しいたけと共に。

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異業種の人

原木栽培の名産地「対馬」。

対馬ならではの椎茸の美味しさはそのままに、「しいたけ革命」とも言える大変革を進行しているのが木村一彦さん、その人。

 

実は木村さん、元々は椎茸栽培とは縁もゆかりも無い人。

「父が建築業ば興しておったとが、私が28歳の時、急逝しまして」

急遽、社長として就任。父の会社とは言え、経験の浅い若者が従業員を束ね事業の大海を渡りきっていくのが如何ほどであったかは想像に難くない。

無我夢中・・・そんな期間がどれだけあったろう。

経営者としての経験を積んで10年、周りの事も少しは見れるようになり、先々の計画も視野に入ってきた頃、大きな転機が訪れた。

 

故郷が壊れていく

木村さんの目に入ってきたのは、放置され荒れてしまったいくつもの椎茸のホダ場(椎茸を育てる原木の設置場所)。

幼い頃から・・・一歩、山に踏み込むと小川沿いの木立の中にいくつも見えるホダ場は、木村さんにとって故郷の原風景。

煌めく木漏れ日を受け、程よく湿度を帯びたホダ場は幻想的で、まるで妖精の棲家のよう。

静寂の中にありながら、命の躍動が脈打つのを感じる不思議なその場所は、得体のしれぬ大きな何者かが支配する、特別な場所にも思えた。

何かが息づく神聖な場所。それが今、無残な姿となって眼の前にあった。

どうしても気になり聞いてみれば、

「ぜんぜんあかんけん、もう辞めることばした。」

「しんどいことばっかりで、いっちょん金にならん。」

異口同音、そう語る椎茸の生産者達。

それは故郷「対馬」が静かに壊れていく前奏曲のようであった。

 

「こがん仕事ば、

    だいがしたかと思うとか?」

しいたけの原木栽培、それは厳しい仕事。

急峻な斜面でふんばり原木を伐採。枝を落とし適宜カット、それを積み上運搬。そのホダ木一本一本に穴を開けては菌打ちし、ホダ場に運んで組み込む。湿度などの日常管理をしながら年に一度はホダ木を天地返しし、収穫できるのは一年半後。収穫も一個一個を適期を見極めながら手作業で。

米作りや畑作業のように機械化しにくく、その多くは力仕事でありながら、繊細さも要求される仕事。

そして市場では「菌床栽培」による、より安価な椎茸の席巻。

価格では到底太刀打ちできず、生産量を増やすにも体は一つであるので、採算を見込むのが難しい。

そして何より、彼らは年齢を重ねていた。

去年行った一つ一つの作業が、今年は何倍もの重さに感じる事もある。

来年はどうだろう?そんな不安を考えないわけにはいかなかった。

一方、若い世代。

彼らの殆どは職を求めて次々と島を後に。僅かに島に留まる若者も、重労働で採算も見込み難い椎茸の原木栽培に就くものは稀有であった。

「こがん仕事ば、だいがしたかと思うとか」

笑いながら話す椎茸生産者。その言葉が重く響いた。

 

 

今しかない

「こんまま終わらせてよかとやろうか・・・」

木村さんは見ぬふりが出来なかった。

対馬の宝、原木栽培の椎茸。それは全国に向けて堂々と勝負できる数少ない対馬の名産であり、130年を誇る伝統。それが、今目の前で終焉の時を迎えようとしていた。

なんとも言えず寂しかった。悔しかった。

この荒れたホダ場は対馬の縮図。

これを捨ててしまうことは、対馬を捨ててしまうこと。

そんな思いでいっぱいになった。

まだ間に合う。

今!今しかない。

 

おれにもやらせて欲しか!

どうしてそれを思いついたのか?

「いっそ、おいがやったら、どがんなっやろうか」

そんな思いがむくむくと湧き上がってきた。

 

元より椎茸の栽培については素人。しかし常日頃眺めていた椎茸栽培の作業については、建築業の経営者として

「まっとこうしたほうがよかやろうに」

と思うところも多々あった。

問題を持つ現場があって、実現したい姿がある。様々な可能性を検討し、どうすれば安全で確実にたどり着けるのか、もっとも合理的な解を探る。この10年、自分が培ってきた仕事は椎茸栽培にも活かせるのではないか?

機械もある、重機もある、そして人もいる。

独りで椎茸栽培の全てを行うのは重労働であるが、効率よく行程分解してはどうか?独りで栽培できる規模は限界があり採算は難しいが、規模を大きくすればどうか?そんな算段を重ね、どんどん青写真を描いていった。

そしてその青写真には、椎茸生産者の協力、参加が不可欠。いや、それが無ければやる意味もなかった。

そうなると、もう居ても立ってもおれない。

「こがん事ば考えとっんだとばってんどうやろうか?」

栽培をやめてしまった人、やめようと思ってる人、迷っている人に話にいった。

「なあんも知らん若造がなんば言っとっとか」

素人の思いつきと一笑に付されるかもしれない、そんな不安も大きかった。

「こんままで椎茸やめてしまうとは余りにも惜しい。皆さんの知恵と技術とオイの考えば合わせれば、きっとうもういくやなかろうか。」

自信と確信の唯一の源泉である「対馬の原木栽培しいたけは、全国に誇れる名品」という事。そして「故郷対馬を絶対に壊してはならない」そんな思いを胸に、描いた青写真をいっぱいに広げた。ありったけの思いの丈をぶつけた。

そして答えは意外にも

「おれにもやらせて欲しか。」

「そがん事なら、手伝わせてほしか」

話してみれば、椎茸栽培を辞めたくて辞めた人は独りも居なかったし、皆、椎茸を作り続けたかったし原木栽培しいたけに心底自信を持っていたのだ。

こうして原木栽培しいたけ生産者として木村さんの歩みが始まった。

2006年のことである。

 

 

進化する原木栽培しいたけ

そして10年。

原木栽培しいたけの魅力はそのままに、さらなる品質向上と安定に向けて施策を練り実行すると共に、対馬原木栽培しいたけのセールスマンとして、自ら各地の商談に出向き、物産展のブースに立っては試食を進め、感想を聞き取るなど最前線で八面六臂の日々。

そんな木村さんの大きな改革として、先ず一点は森のホダ場の自然環境を再現した全天候型ハウスの建設。

広葉樹の森にあるホダ場は、夏は葉が茂ってほどよく遮光し、冬は落葉して陽を届け、一定の湿度も保持する天然の優れたシステム。

森の持つこの機能を再現しながら、品質や出荷の安定性、収穫作業に影響する雨を任意で管理するこの施設は、

「温度や湿度も自然そんまま、風も通るばい。軽トラやリフトも入るんで働くひとにも役に立つ」と木村さんの自慢の一つ。

品質そのままに、生産・出荷の安定性はぐんと向上し、働く人の負担も軽減できた。

そしてもう一つは、椎茸栽培を終えたホダ木の再利用。

菌打ちをして5年も経ったホダ木は、幾多の椎茸に養分を吸収しつくされ、モロモロの状態に。これを細かく粉砕し、鶏舎や牛舎に敷き詰め、最終的には糞尿と共に自然発酵させ肥料化し、対馬の土へと還す。山から得たものを存分に使い尽くし、また山へと戻す。様々な恩恵をもたらしてくれる島の自然と末永く良好な関係を築くための一環だ。その循環を形成する養鶏や育牛施設も共同で設置運営。より多くの人の働く場所を創造することにも。

「島から得たもんば島に還す。そいで島も人も、より豊かになるとばい。そがん姿ば実現したかった。」

原木栽培しいたけを核として、豊かで活力ある故郷再生を一歩一歩、しかし確実にその歩みを進めている。

 

仕事が輝く。

人が輝く。

対馬が輝く。

そんな木村さんの元には20代から70代までの老若男女が集い、椎茸栽培中心に毎日、汗を流している。

「魅力ある仕事の無かけん島ば離れるとばい。仕事の輝いていれば自分も輝く。」

「島の魅力はいっぱいあるとばい。一番気づいてんとは島の人ばい」

それは口癖のように語られる木村さんの言葉。

島の宝でありながら廃れようとしていた原木栽培しいたけ。

見捨てられそうだったその宝に着目し、大規模化により多くの人が集う仕事場として再生した木村さん。

今、多くの人々とそのご家族の暮らしと希望が木村さんの両肩にずしんと乗っているが、その重さを原動力に更に前進、前進の意気込み。

仕事が輝く。人が輝く。対馬が輝く。

「まぁだまぁだ道半ば。島の人がみな輝くごと役に立とるようしていきたか」

木村さんの挑戦は続く。

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